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新庄選手の引退の理由を知って



新庄選手の引退の理由を知って、感慨に浸った。



プロデビュー当時からアイドル的な人気を博した彼。

プロ野球選手としてはじめて写真集を出したのも彼。

敬遠ボールを打ってサヨナラヒットにした伝説も持つ。

チャンスに強く、日本一の守備力を持つ、攻守の選手。

日本の数億の年棒を蹴って、安給で大リーグへ行った。

数々の迷言は、日本のニュースを沸かせた。

日本へ戻り、遠く北海道・札幌へ踏み込み、野球不毛の地と

言われたこの地を、ベースボール色に染めた。



・・・これだけ波乱万丈で魅力的な野球選手は、 他にいない。

ファンサービス精神という、日本のスポーツ選手にとって

まったく新しい精神概念を作り上げた、その功績は大きい。



引退会見。野球を辞めて次は何をやる気、と期待して待った。

しかし、「まだ何の予定もない」という。

おそらく、本当に、何の予定もないのだろうと思う。

アメリカから帰ってくる前も、「何も決まってない」と言っていた。

最初に連絡があったという日本ハムに、ひとつ返事で入団した。

彼はそういう男だ。



何の予定もないのに、なぜ今、野球を辞めるのか、との問いに、

「僕の、グローブが、もう使えなくなりました。それだけです。」

そう答えた。意味がわからなかった。


ポカンとした表情をした記者たちの中で、デビュー当時から新庄

選手を追いかけてきた記者だけが、その言葉に涙ぐんだらしい。

「彼は最後まで野球ファンのことを想っていた。本当のプロだ。」

その記者が、自身のネットにこう書き記していた。



これを知って、新庄選手と、そのグローブについて調べてみた。



プロに入って一ヶ月目に、もらった給料でグローブを買ったらしい。

そのグローブをつけた試合、自分の前に転がってきたボールを

素手で取ろうとして後逸し、コーチに叱られた。なぜ素手で取ろうと

したのかと怒るコーチに、買ったばかりのグローブを使うのが

もったいなくて、と答えた。

それから15年、雨の日も風の日もそのグローブを使い続け、

破れては縫い、ほころびては直し、常に大切に使ってきた。

周りの人間が、グローブを買い直すように勧めても、本人は

ただ笑うだけで、そのグローブを使い続けていた。



去年のシーズンの終わり、新庄選手の体はボロボロだった。

医者とトレーナーと、一部の同僚だけが知っていた。

コーチも含め、周囲の人間は、本人に休養を勧めた。しかし

本人は、ただ笑うだけで、体に鞭を打って使い続けた。

まるで自分自身とグローブとを重ね合わせるように、傷つき

直していきながら、プロ選手としての責務を追い続けた。

最後のシーズンは打率も伸びず、選手として限界を迎えていたが

持ち前の努力と笑顔で乗り切った。



そして引退会見。彼はひたすら笑顔を絶やさなかった。

引退を決めた理由は?そう聞かれたとき、体の限界が来たと

言わなかった。辛かったとか、もう無理だとか、そういう表情すら

出さなかった。ただ、グローブの限界が来た、そう表現した。



ここに、新庄という選手のプロとしての意地と、ファンに対して

プロは最後までどうあるべきか、という姿勢を垣間見れた。

グローブなんて買い替えれば済む話なのだ。しかし新庄選手は

まるで自分とグローブを重ねあわせるかのように、選手としての

寿命の限界まで野球を続けた。そして、大相撲の貴ノ花のような

泣き言も言わず、サッカーの中田選手のようなゴタクも並べず、

ただ、選手として最後までトライし、笑顔で球場を後にした。

そのうえ、「何をやるかは何も決まってない」のである。

なんと九州男児らしい引き際だろうか。



新庄という選手の生き様を振り返ると、長い感慨に浸らず

にはいられなかった。



人はなかなかこのような引き際を作ることはできないものだ。




小さな話になってしまうが、自分はサラリーマン時代に4回

転職をした。いま独立経営なので、つまり5回退社したわけだ。

サラリーマンは、常に退職・転職のことを考える生き物だ。

その退職に至り、人それぞれ価値観が違う。

自分の場合、「給料」という、単純な価値観に基づいていた。

「給料が下がる」もしくは「給料が上がらない」という事態に

なったとき、あまり迷うことなくスパッと退職した。

自分はとても頑張るサラリーマンだったので、いつも会社の

数字を気にして、数字を上げることに全力を注ぎ、実際、

大きく数字を上げていった。つまり会社としては毎年給料を

上げるべき社員だったわけだ。そういう社員だったからこそ

給料が下がる、もしくは上がらない、という状態は、非常な

緊急事態で、自分としては、もう仕事をしている意味がない、

と思えるほどにショックなことだった。5回の退職のうちの

4回をこの理由で退職した。最後の会社など、重役から

「君の年齢でこの給料は高すぎるから減って当たり前だ」

と言われた時点で退職を決めた。

自分としては、給料という、ただ会社と個人とを結ぶ唯一の

ものに価値観をもっていたことは、今でも潔しと思っている。



ちなみに、給料という価値観は、金額に応じたものだと

決まっているわけではない。ある小さな会社にいたとき、

社員が5人しかいなかった。人件費の全体を100%と

したなら、ひとり20%という計算になるのだが、自分は

全体の30%にあたる金額を給与されていた。金額は

とても小さなものだったが、自分の役割と功績を会社が

大きく評価し、少ない金額だが形として還元しようとする

努力をしっかりと感じ、それに意気で応えようとした。

しかし、上司と喧嘩して辞めてしまった。

この1回だけが、給料という価値観から外れてしまった

恥ずべき例だ。人間関係を理由に辞めるのは若いOLだけに

許されたもので、男の引き際としては最も恥ずべきものだ。



かの新庄選手もプロ時代に3回ほどチームを移っているので、

もしかして新庄選手もコーチやフロントと喧嘩して辞めた例が

あるのなら救われる、などと思い、あさましく調べてみたが、

さすがは名選手、過去にそういった人間関係でのトラブル

は一切なく、選手とのトラブルの多さで知られる野村監督の

下にいたときさえ、とても愛され、認められていたらしい。

あれだけ目立ってあれだけ派手好きな人間が、そういった

周囲とのトラブルと無縁だったというだけで、新庄という選手は

どういう人間なのか、またヒシヒシと興味が湧き上がってくる。



実は自分と新庄選手、年は離れているが、出身地が非常に

ご近所で、3キロも離れていない。

いつの日か縁ができて、いろいろと人間話を聞かせてもらえる

機会が来るよう、祈っておくことにする。



新庄さん、野球、お疲れ様でした。



END

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計算高い、というと、一般的には



計算高い、というと、一般的にはよくない性質にとられる。


「あいつは計算高い」は、決して褒め言葉にならない。


しかし、社会で生き抜く上で、この計算高さというものは

とても重要だ。





前の会社の同僚で、若くして部長になった先輩がいた。

アルバイトからスタートし、社員になり、順調に出世し、

百名近いの部下を抱える社内最大部門の長となった。

彼は何かと計算高い人物だったが、それは悪いイメージ

ではなく、ときに感嘆させられるような計算高さを

披露してくれることがあった。



あるとき、彼の部下が、本社業務で大きなミスを犯した。

社長は怒り、社内にもマイナスイメージが広がりつつある。

部下のミスは上司のミス。その部下はもちろん、上司である

彼自身にも、彼の部門にも、大ダメージとなるはず、だった。


だが、彼は、即座に社長に面会を申し出て、こう言った。


「私の部下が、大きなミスを犯してしまいました。しかし、

この部下がいないと、私の部門はやっていけません。

会社の発展のためにも、処罰を軽くして頂きたい。」


その言葉にグッときたのであろう。結局、社長は

彼の部下に、なんの処罰も与えなかった。

"社長みずから今回の件を不問に伏した"という

話は社内の隅々にまで広まり、彼と彼の部門の

イメージダウンは見事に回避された。


だがその後、上司である彼自身が、ミスを犯した

その彼の部下を、こっそりと閑職に回した。




この一連の内容を知り、なんと計算高い人物だろうと

感嘆を禁じ得なかった。



前置きしておくが、ミスを犯した部下、というのは、元来

頭が悪く、社内の評判も芳しくないただの一部下だった。

その部下を、「彼がいないと部門がやっていけない」と高く

評価してみせることで、まず、部下の名誉を回復させた。


また、部下のミスに感情的にならず、あえて高く評価する

という、上司としての器量の大きさを見せることで

彼自身の株を上げた。


さらに、"社長が許した"という事実をトップダウン的に

社内に広めることで、部門のイメージダウンという危機を

回避したばかりか、社長の心の広さを誉め上げることで

社長のオトコも上げてしまった。


そして最後に、またこのような事態が起きてしまわないよう、

一度ミスを犯したという"前科付き"の部下を閑職に飛ばした。


これで、目の前で起きた危機と、今後のトラブルの再発を

見事に回避してしまったのである。



おそらく、完璧な計算で作り出したシナリオだったのだろう。

彼は、傑出して「計算高い」人物だった。





先日、久し振りに東京へ行ってきた。


自分と年の近い、大切な友人がいる。

とても熱い心を持った男で、いつも話が盛り上がるのだが、

彼もまた、とても計算高い男だ。



ちょっと余談を挟むが、

「計算高い」という言葉の響きの悪さの原因は、

計算ができる、ということそのものではなく、

"影でこっそり計算している"という、この

"影でこっそり"に原因がある、といえる。


だが、東京の彼と自分の関係では、この"こっそり"が無い。



ある日、彼からメールが届いた。そのメールには、プレゼン

企画書がファイル添付されていた。

その企画書を見て、意見をくれ、と言う。

彼は雑誌社に勤める営業マンなので、どこかスポンサー

への営業プレゼンを行なうための企画書なのかと思い

ファイルを開いてみたところ、全くそれとは違っていて、

"これからうちの雑誌はどういう方向へ向かうべきなのか"

"どういった営業施策を行なっていくべきなのか"

といった、いわば「企業戦略書」という類のものだった。


その意図を聞いたところ、近いうちに社内で大きな人事が

あり、新しいポジションが設置されるのだという。

彼はそのポジションを狙っているのだが、かなり上位の

ポジションなので、年齢的にも職務経験でも届かない。

そこで、"そのポジションに求められるものは何か"と

自分なりに考え、それに合わせた視点をもって、先進性の

高い企画書を書き、上層部へ提出するのだという。


「どう?なかなか計算高いでしょ?」と彼は笑いながら

話していたのだが、あれから数ヶ月して今回ひさしぶりに

彼に会って、新しい名刺を受け取って見てみると、

その肩書きは、例の"狙っていた"ポジションになっていた。



「今はこのポジションに自分を合わせるのが大変だ」と

笑っていたが、彼は持ち前の計算高さで乗り切っていく

ことだろうと確信している。





計算高いという性質が生み出すものは、成功例だけ

ではない。


八年程前、中学時代からの友人に会った。

彼はある会社に嘱託で勤めていた。

月に12万の給料だが、一日たった三時間の労働だという。


彼が言うには、お前は、毎日夜遅くまで働いて月に25万の

給料をもらっているかもしれないが、時給に直せば、

絶対に俺のほうが得をしている、という。


オチをつけるのがバカバカしい話だが、計算高いという

価値観があさっての方向に向いてしまうと、このような

笑い話になってしまう。彼は金額の計算に長けていたが、

"先行投資"という、もっとも大切な計算を怠ったために、

八年経った今でも嘱託で働き、一日に三時間の労働で、

相変わらず12万の給料を得ている。仮にそのような

仕事をあと二つほどやったとしても、一日九時間の労働で

36万だ。年齢的に、すでに同級生のサラリーマンより

年収が低い。人生計算ができなかったと振り返る他ない。



このような例は、パチンコや競馬など、ギャンブルをやる

人間に当てはまる。



"ただギャンブルが好き"という人は好むべき存在だが、

"ギャンブルにも効率性がある"という人は、かなりイタい。


数字の計算ができる人間は、初めギャンブルを好むが、

時間の計算ができるようになると、ギャンブルから離れる。



五時間をギャンブルに使って五万円の現金資産を稼ぐより、

五時間を読書に使って七万円相当の知的資産を稼いだり、

五時間を友人作りに使って十万円相当の人脈を稼ぐほうが

より効率よく、先行投資に優れていることに気付く。



五万時間をギャンブルに使って五千万円の現金を作るより、

五万時間を事業経営に使って一億円の現金を作るほうが

より効率よく、将来性があり、楽しいことに気付く。




自分はそれほど計算高く立ち回るタイプではないが、

何か大きな決断をするときは、かなり時間をかけて計算する。

そして、計算高い仲間や友人に相談することを欠かさない。




END

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人の能力値、というものを考えることが



人の能力値、というものを考えることがある。



能力値、という言葉は、

ゲーム世代の者にしか耳慣れない言葉かもしれないが、

その言葉の通り、ある特定の人物の能力を数値化したものだ。


人物を数値化する、というのは何とも危険な発想だが、

ゲームは数字遊びの世界なので、目に見えないものをすべて

数値化してしまう必要がある。


あくまでゲームの中での話、というところから事例を挙げていこう。



ゲームの能力値といえば、

体力があるのかないのかを表す「体力値」や、

頭がいいか悪いかを表す「知力値」などが代表例だ。


剣と魔法のファンタジーの世界では、

体力値の高いものがより剣を振り回して強く、

知力値の高いものが数々の困難な魔法の業を使いこなす。


人物ごとの能力の高低を表す数値、というより、

職業としての得手と不得手を表すための数値、という

意義のほうが勝るだろう。


ファンタジーというジャンルでは、

あくまで架空の人物が登場するのが主なので、

この数値設定に特に面白さを感じることはない。


だが、

「三国志」といった歴史ゲームになると、

この数値が、実に面白い存在となってくる。



三国志には、知力値・魅力値・武力値の3つの能力値がある。

この3つの値を、順序をバラバラにして、

A値、B値、C値、に置き換え、

"桃園の誓い"でお馴染みの三義兄弟の数値を表記してみよう。


劉備:A値・・・74 B値・・・71 C値・・・100

関羽:A値・・・99 B値・・・85 C値・・・88

張飛:A値・・・99 B値・・・25 C値・・・40


三国志を知る人なら、どの値が何を表すのか、すぐに分かる。

A値が「武力値」、B値が「知力値」、C値が「魅力値」である。

劉備はカリスマ、関羽は文武両道、張飛は筋肉馬鹿、

という図式だ。


関羽と張飛の武力値が、同じ99点というのは、

張飛が惨めな気もするが、かといって

関羽のほうが武力値が低い、となると、こちらのほうが

物議を醸しそうなので、まあ無難な収まりどころといえるだろう。


こうなると、諸葛孔明の「知力値」が気になるところだが、

武力値:65 知力値:100 魅力値:95


さすがに知力値はゲーム最高の100である。

魅力値も非常に高いので、劉備が彼に遺言を残す際に、

我が子に国を治める才が無ければ替わりに国を治めてくれ、

といった理由が伺える。


ちなみに、その劉備の息子の能力値は、

武力値:41 知力値:15 魅力値:62 である。

目も当てられない。



また、面白いことに、

3つの能力値の最高点"100"を持つ人物は、

ゲーム中において、それぞれの能力値に1人しか存在しない。

魅力値100を持つのが、劉備玄徳。

知力値100は、諸葛孔明。

武力値100は・・・かの呂布奉先である。

おお!やっぱり!と頷けてしまう。

このあたりの、三国志ファンをうならせる数値設定が、

なんとも憎らしいではないか。



「信長の野望」なるゲームでも、同じ3つの能力値が登場する。

ちなみに、それぞれの能力値の最高点100を持つ人物は、

魅力値100、優れた人材を配下に集めたカリスマ、織田信長。

知力値100、智謀ひとつで地方国家を築いた、毛利元就。

武力値100、軍神・毘沙門天の化身、上杉謙信、である。

ちなみに、魅力値の次点は松平元康(のち徳川家康)の97点、

知力値の次点は黒田官兵衛(如水)の98点、

武力値の次点は真田幸村の97点である。

これまた通を唸らせる。

じゃあ、山本勘助は?柴田勝家は?

山内一豊はどうなのよ?などと興味が沸きあがり、

ゲームをそっちのけで、能力値システムにハマっていくのは、

歴史オタクの悲しい性である。

しかも、そういった悲しい人たちのために、

ご丁寧に「登場人物能力値データブック」なる本まで

発売されていたりする。面白いものだ。



こういった能力値システムは、いまやゲームをやる上で

当たり前に存在するシステムとなっている。



が、実は、こういったシステムには、

ひとつの起源があることをご存知だろうか。



それは、テレビゲームが台頭する以前に存在した、

テーブルトークゲーム」だ。


テーブルトークゲームとは、その名の意味する通り、

テーブルを囲んでトークをしながらゲームする、というもの。

テレビゲームとの大きな違いを挙げるなら、

テーブルについた一人一人が、

ひとつのキャラクターになるということ。



例えば、

三国志をテレビゲームでやるなら、テレビの前に座ったものが、

ひとりで多くのキャラクターを操作することができる。

が、テーブルトークゲームにおいては、

田中くんが劉備、山下くんが関羽、伊藤くんが張飛、

といったように、それぞれがひとりの人物を演じることになる。

そのテーブルには、マスターという役割のものが一人いて、

ゲームを制作、進行する。


そしてこのゲーム、

これまで説明したテレビゲームのように、

武力・知力・魅力といった3つの能力値ではなく、

更に複雑な種類の能力値を必要とする。



例えば、道を進んでいると大きな穴があったとしよう。

テレビゲームであれば、単純に「Aボタンでジャンプ」し、

タイミングがよければ穴の向こうに無事に着地し、

悪ければ穴に落ちてサヨウナラ。

だが、テーブルトークでは、そう簡単にはいかない。

穴を飛び越えるためには、

敏捷値」という能力値がある。

その数値に基づき、

"その穴をジャンプして飛び越えることができる確率"

を弾き出す。

そのパーセンテージをクリアするために、100面サイコロを振る。

このサイコロの目によって、

そのキャラクターが穴を越えられたかどうかの運命が決まる。



このように、

登場人物のあらゆる行動を、"能力値"をベースにして進めていく。

穴を飛ぶだけでなく、人を説得したり、物を持ち上げたり、

宝箱を開けたり、とっさの判断で窮地を脱したりと、

あらゆる行動に対してそれぞれの能力値を必要とするので、

その設定の細かさは尋常ではない。


そして、これらの細分化された能力値システムを見ていくと、

これがかなり面白い。



「体力」・・・肉体的な力。健康さ。筋力。

「知性」・・・頭の良さ。頭の回転の速さ。発案力。

「教養」・・・物事を知っている量。分析能力。

「敏捷」・・・身の軽さ。運動神経。行動力。

「器用」・・・手先の器用さ。操作能力、事務処理力。

「精神」・・・我慢強さ。意思の強さ。気力。

「魅力」・・・人を惹きつける力。リーダーシップ。統率力。

・・・とまあ、こういった能力値が主体になってくる。



これを、今の世の中の様々なケースに当てはめてみると・・・


学校の勉強はロクにできないのに、

先生を困らせる数々の悪戯を思いつく子は、

教養値が低く、知性値が高い、と考えると興味深い。


どの会社にも、あれやこれやと企画を思いつくが、

どの企画も途中でおざなりになってしまい、

結局、形にできない社員がいるものだ。

この社員はおそらく、

知性値は高いが、精神値が極めて低い、といえるだろう。


とても物識りだということで、会社のプロジェクトの一員に

加えてみたところ、会議の時には活躍するのに、

いざ現場、となると遅れをとる社員がいる。

彼は、教養値が高いのだが、敏捷値が低い


遅刻常習犯で、机の上の整理もできない、

見た目には明らかにダメ社員なのだが、

なぜか周囲に可愛がられて、

意外と出世してしまう社員もいる。彼は、

精神値と器用値が極めて低いのだが、魅力値が高い



・・・こうして当てはめていくと、

はて、自分の能力値はどうなのか、と思う。


値のほどは分からないが、自分が、

自分自身の能力値の中で最も関心が強いのだろう、

と思われるのが、知性値、であることは間違いない。


なぜなら、自分よりも知性値が高い思われる人間には、

嫉妬心を感じることがあるからだ。

恥ずかしい話だが、事実だから仕方ない。


しかし、

自分よりも"遥かに"知性値が高い、と認められる人間には、

逆に深い尊敬を覚える。

そういう人物と出会えることは、とても幸せなことで、

今でも3人ほど極めて知性値の高い友人がいるのだが、

それぞれひとりひとりと仲良く付き合っている。


まあ、自分は知性が高い、などと思うほど自信家ではないが、

他人の知性値に対して、様々な感情が内面から湧き出てくる

ことを考えると、自分の知性値に多少なりとも自負心がある、

ということだろう。



逆に、そういう意味で最も自負心の少ないものが、教養値だ。

いろんな物事をよく知っている人間に出会うと、喜びを覚えて、

そういった人間に、よく自分の無知さをカラッと打ち明け、

仲良く付き合ったりしていることがある。これもまた幸せなことだ。

教養値、というものは、インターネットという優れたツールの台頭で、

昨今ではその必要性が幾分薄くなってきているという面もある。

が、会議や飲み会の席のようなライブ環境において、

この能力値は、良くも悪くも、絶大な効果を発揮する。


自分など、ある飲み会の席で、誰かの話の最中に、

その話は、俺のカンセンに触れるなぁ」と相槌を打ったことがある。

すかさず、

なぜこの話で、君は汗をかく必要があるのか?」と返された。

なるほど、琴線というのは"キンセン"と読むらしい。

これだけならまだ救われようものだが、

実は、「汗腺(カンセン)」という言葉の存在を知らなかった。

この話だけでも、自分の教養値の低さを露見するに十分だろう。



また面白いことに、

"知性は良し、教養は悪し"というタイプの人間は、正反対の、

"知性は悪し、教養は良し"というタイプと、ウマが合うものらしい。

自分にもこのケースに当てはまる古い友人がいて、

時に互いの短所を笑い飛ばし、

時に互いの長所で相手の短所を補い合いながら、

実に良い付き合いをしている。

これもまた、人間関係の妙というものだろう。



体力値にはあまり関心はない。

が、以前、うちの会社と取引をする運送会社を決めるときに、

S社とN社の二社を比較検討し、価格が同じラインに並んだので、

どうしようかと悩んだ結果、

両社の営業マンの見た目の違いで、S社に決めたことがある。


S社は2名で営業に来て、

1名は教養値と魅力値が高いタイプで、

営業プレゼントークをバリバリと繰り広げたが、

もう1名は、あきらかに体力で生きているタイプで、

僕はどんな重たい荷物でも運んでみせますよ、と言わんばかりの

堂々とした笑顔で、何ひとつ話さずにドッシリと座っていた。

彼の溢れんばかりの体力値に負けたといって良い。



前述したことだが、

人間というものを数値化する、というのは危険な発想だが、

ある人のある一点を客観的に分析するための方法として、

人の能力値というものを考えるのは、アリなんじゃないかと思う。


昔、学校の担任だった偉そうな先生が、

偉そうに自分に言ってくれたことがある。

「人には欠点もあり美点もある。誰かに腹を立てたのなら、

その人のいいところを見るようにすればいい。

そうすれば腹も収まるものだ。」


そのとき、同じクラスの男と、喧嘩して腹を立てていたのだが、

先生にこのようなことを言われたので、自分の怒りを沈めて、

こんな野郎のどこにいいところがあるのかと、考え込んでみたところ、

そういえば、彼がクラスの中でも、目立っていい顔をした美男子で、

クラスの女性達にいつもモテモテだということを思い出し、

さらに怒りの度合いが増したことがあった。


あの子供の頃の自分に、

人の能力値、という概念が頭にあったのなら、

もう少しマシな事態になっただろうに、と、

今更ながら後悔の念に浸ってしまう。



END

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