幕末を、簡単に説明してくれと
幕末を、簡単に説明してくれと、友人からメールで頼まれた。
君がそこまで熱く語る幕末の歴史というものを、少しばかり
でも知っておきたい、というのだ。
せっかくブログをやっているのに、ただメールに書いて送る
というのも芸がないので、このブログに書こうと思う。
幕末というのは、時代的には江戸幕府の末期、という
言葉を指すのだが、そもそも言葉自体が面白い。
もともと日本という国は、天皇が総べる"朝廷"が運営して
いたのだが、それぞれの地方を治める武家達が力をつけ、
源頼朝を筆頭に押し立てた武士達が日本を運営することに
なり、"幕府"と名付けた。幕府とは、つまり武家政治を指す。
源氏は鎌倉に居を構えたので「鎌倉幕府」と名付けられたが、
その後、戦乱を経て「足利幕府」、さらに「徳川幕府」と進む。
その徳川幕府が最後の幕府となり、武士が治める時代
から再び天皇が治める時代を迎えるが、西洋化を進める
一環として、古い「朝廷」ではなく「政府」となった。
明治政府、大正政府、昭和政府、そして今日の平成政府
まで続いているわけだ。
"幕末"という言葉は、幕府の末期、つまり武家政治の終焉
という意味に捉えたほうが、歴史を説明しやすい。
では、なぜ徳川幕府は末期を迎えてしまったのか。
その理由を追求していくことが、幕末という歴史を究明する
もっとも分かりやすい切り口だと言える。
江戸時代にさかのぼる。
世は徳川家が政治をつかさどっていた。
が、そもそも徳川家というのは、日本全国を統治していた
わけではなく、直接管轄する土地は限られていた。
幕府のおかれた江戸(東京)をはじめ、大きなところでは
横浜、駿河(静岡)、大阪、京都、長崎。
それに御三家と呼ばれる身内がいて、紀州徳川家(和歌山)、
尾張徳川家(愛知)、水戸徳川家(茨城)をそれぞれ直轄し、
さらに従兄弟といえる松平家が、会津(福島)、桑名(三重)と
それぞれの地を直轄した。
つまり、上に挙げられていないその他の地域は、
戦国時代さながらに他の大名が直轄していたわけだ。
他の大名というと無数にあるのだが、大大名だけ挙げると
仙台の伊達家、彦根(滋賀)の井伊家、芸州(広島)の浅野家、
長州(山口)毛利家、福岡の黒田家、薩摩(鹿児島)島津家、
それに現在のNHK大河「功名が辻」の山内一豊を祖に持つ
土佐(高知)の山内家などが、巨大な勢力を持っていた。
一般企業に例えてみると分かりやすい。
「徳川商事」という会社があり、取締役会が開かれる。
代表取締役が徳川さんで、その親戚の御三家徳川さんや
松平さん達が取締役だとしよう。これに、執行役員として
伊達さん、井伊さん、浅野さん、毛利さん、黒田さん、
島津さん、山内さんがいる、と考えてほしい。
これまでは順調に運営していた取締役会だったのだが、
あるとき、大きな議題が持ち上がる。
江戸時代に戻る。ペリーの黒船の来訪、である。
アメリカからはるか海を渡ってきたペリーは、幕府に対し
「おたくと取引契約したい」と言ってきたのだ。
その契約内容というのは屈辱的なもので、どこを見ても
日本に不利なものばかりだった。しかし、もし契約を破棄
するようであれば、武力をもってする、という脅迫付きだ。
徳川さんや松平さん達はこれに慌て、取締役会を開かず
極秘で、執行役員の井伊さんにだけ相談し、
「仕方ないから契約しましょう」と言う井伊さんに賛同した。
井伊さんは、他の執行役員を押し通し、
独断でアメリカや他の諸外国と契約を締結してしまう。
企業に当てはめれば、欧米企業からの圧力で、突然
社内に外資が入ってきたようなものだ。
これに激怒したのが、執行役員でありながら多くの部下を
持つ毛利さんと島津さんだ。
「外資とこんな不利な契約をしては会社が潰れる!」
慌てて取締役会を開いて反発しようとするが、もう
契約を締結した後の祭りである。怒りは収まらない。
また、取締役の中でも水戸(茨城)の徳川さんは、
「会社の行く末より前に、わしはガイジンが嫌いじゃ!」
とわめき出し、ついには部下達が暴発して、執行役員の
井伊さんを殺してしまう。世に言う「桜田門外の変」だ。
これに発して、執行役員の毛利さんと島津さんは部下達を
使って、ある計画を立てる。
「もう徳川さんではこの会社を続けていくことができない。
はるか昔に戻って、天皇陛下に会社をやってもらおう。」
その頃、その天皇陛下は、徳川さんの監視化で、京都の
御所に押し込められていたので、毛利さんと島津さんの
部下達は、続々と京都に押し寄せ、天皇陛下に動いて
もらうために画策する。ちなみにその毛利さんの部署の
部長が桂小五郎(後の明治政府重鎮、木戸孝允)であり、
島津さんの部署の部長は西郷隆盛だった。
彼らが京都に潜伏して、京都内の政治世論を動かした。
しかし、徳川さんとしてはこれを阻止せねばならない。
取締役の会津(福島)松平さんが、京都所司代、つまり京都の
治安責任者として自ら京都に居座り、毛利さんや島津さんの
部下達を秘密裏に暗殺するため、新しい部署を作る。
これが、かの有名な「新撰組」である。
こうして京都を舞台に、毛利さんと島津さんの両執行役員と、
会津松平取締役の新撰組との、壮絶な激戦が始まる。
そして、世にいう「池田屋の変」において、新撰組は、
毛利さんの現場の部下達を、ことどとく殺してしまう。
これに怒った毛利さんは、長州(山口)で、クーデターを
起こす。武力をもって徳川さんに対向しようと、兵を
挙げたのだ。
だが、ここまでの事態になると、さすがに他の執行役員
たちも、「毛利さんのやりかたはどうか」と考え出し、
苦難の末、とりあえず徳川さんに従おう、ということに
決定する。
こうして毛利さんは、徳川取締役達をはじめ、伊達さん
井伊さん、浅野さん、山内さん、あっさり裏切った島津
さんら執行役員さんたち全てを敵に回し、
完膚なきまでに叩きのめされてしまう。
だがこの間、薩摩の島津さんに、ある出来事があった。
諸外国と契約を結んだ「徳川商事」だったが、その契約の
中で目立った取引となっていたのが、フランスとの軍事契約
だった。フランスの最新鋭の武器をどんどん買いつけた
徳川さんと部下達は、次第に軍事力を増していき、他の
役員たちとの力の差を確実なものとしていった。
だが、これに不満を持つ外国があった。イギリスだ。
イギリスはフランスとの営業コンペで負けてしまい、
徳川さんに武器を売ることができなくなった。
そこで起死回生の策に出た。執行役員の中で最も力を
持ち、部下の数も多い島津さんと、直接契約を結んだのだ。
その取引にあたったのが、島津さんの部署の部長である
西郷隆盛と、イギリスの営業担当トーマス・グラバーである。
長崎に今でもある「グラバー邸」は、この人の住まいだった。
これにより、島津さんは強大な力と野心を手に入れ、
「もしかしたら自分達の力で徳川を倒すことができるかも」
と考え出した。だがこの時点では、自力で徳川さんを倒す
ほどの力は無かったし、ひとり立ちしてしまえば、毛利さんの
二の舞を踏んでしまうかもしれない。時期を待っていた。
話は戻り、毛利さんはクーデターに失敗し、徳川さん達と
しては、会社内の不平分子である毛利執行役員を完全に
無きものにするため、討伐軍を繰り出す。
慌てた毛利さんは、部長であった桂小五郎を追放し、
副部長や課長達の首をすべて飛ばし、
「ごめんなさい、もう二度とこんなことはしません」と
徳川さんに平謝りし、ギリギリのところで許してもらう。
部下達には、「今後は徳川さんの言うことをちゃんと
聞いて、徳川商事のためにみんなで働こう!」と激を
飛ばしたのだが、その方針に徹底的に反対し、断固として
徳川商事へのクーデター続けようとする一人の課長が
現れる。高杉晋作である。
毛利さんの新しい部長は、この高杉なる不届者を処罰
しようとするが、逆に部署内クーデターにあい、その席を
追われてしまう。
高杉晋作は、追放されていた桂小五郎にもう一度部長
に復帰してもらい、上司にクーデターの続行を進言する。
上司の毛利さんも「ここまで来たら仕方ない」と了承する。
だが、毛利家には、徳川さんや島津さんと違い、外国との
軍事契約という力強い後ろ盾がない。今からフランスや
イギリスに契約を申し込んだとしても、徳川さんと契約している
フランスが相手にしてくれるはずも無く、イギリスは島津さんと
秘密裏に契約しているのだから、こちらも無理だ。
ほとほと困り果てている桂部長と高杉課長のところに、
幕末史上最大の英雄、坂本竜馬が颯爽と登場する。
坂本竜馬は、執行役員のひとりの土佐(高知)山内さんの
部下だったのだが、一度会社を辞め、新たに自分で会社を
興していた。世に有名な「海援隊」である。
竜馬は、桂部長と高杉課長に、商談を持ちかける。
「イギリスが薩摩(鹿児島)島津さんに武器を売っているが、
これをうちの会社が買い付けて、そのあと、その武器を
うちの会社があんた達に売る、という転売の形をとれば、
万事うまく行くではないか」
竜馬の仲介で、島津の部長である西郷隆盛と、毛利の部長
である桂小五郎が会談し、その席で、
「一緒にクーデターを起こして、徳川さんを倒そう」
との密約を結ぶ。これが史実でいう"薩長同盟"である。
こうして毛利さんは息を吹き返し、島津さんと共に強大な
力を蓄えていき、いよいよ徳川さんを倒せる、というところ
まで漕ぎ着ける。
だが、坂本竜馬には、疑問が生まれていた。
「毛利さんと島津さんが、徳川さんと争ったとしても、
広い目で見れば、日本という国が消耗してしまうだけだ。
これでは将来、日本がイギリスやフランスやアメリカといった
諸外国と肩をならべる強い国になることができないぞ」
そこで、前の上司だった執行役員の山内さんと話し、
ある秘策を授ける。
"このまま時が進むと、徳川さんは倒れてしまい、日本は
混乱してしまう。そうなる前に、徳川さんは代表取締役の
地位から平取締役に退き、その替わり、代表取締役の座
に天皇陛下に座ってもらうようにすればいい。"
なるほど、そうすれば事は収まる、というわけで、
山内執行役員は早速、徳川代表取締役と会談する。
徳川さんもこれを受け入れ、
"この会社の代表権を、天皇陛下にお返しします"
ということを世間に公表する。
これが、史実にある「大政奉還」であり、
徳川政権の終わりを意味する、事実上の"幕末"である。
本来なら、これで事は収まるはず。だった。
しかし、納得のいかないのは、まず毛利さんと島津さんの
部下達だ。
「徳川さんが役員として残るのでは、政権交代にならない」
「徳川さんには役員を辞退してもらわなければいけない」
との声が上がった。
また徳川さんの部下達の間でも、
「上司が代表権を返すと言ってしまったが、徳川商事は
あくまで俺達が運営していくんだ!」
との激烈な意見が飛び交いはじめ、
その攻防の最中で、坂本竜馬は暗殺されてしまう。
暗殺犯は未だ明らかになっておらず歴史の闇に埋もれて
しまったが、おそらく島津さんの部下か、徳川さんの部下の
いずれかだったろうと現在の歴史家は分析している。
はたして薩長軍と徳川軍との激しい戦争が繰り広げられる。
いよいよ日本の首都・江戸での戦いの火蓋が切られようと
したとき、徳川さんの社長室長が、これに待ったをかける。
「江戸が焼き野原になってしまっては、今後日本が諸外国と
肩を並べる実力をつけていくのに、大きな痛手を受けてしまう」
この社長室長こそが勝海舟であり、坂本竜馬の先生だった
人物だ。
勝海舟と坂本竜馬、この二人は、徳川商事の行く末では
なく、日本そのものの行く末を案じていたのだ。
徳川側の社長室長・勝海舟と、島津側の部長・西郷隆盛の
会談によって、無事、江戸が焼き野原になることは回避された。
この時点で、徳川さんの権力は事実上崩壊しており、
ここまで状況を見守り続けた伊達さん、浅野さん、黒田さん
執行役員たちも、毛利さん、島津さんに呼応した。
最後まで抵抗を諦めなかったのは、新撰組を結成して
薩長の部下達に対向していた、取締役の会津松平さんだ。
会津(福島)に立てこもり、最後までクーデター軍と戦った。
17歳にも満たない男子によって結成された「白虎隊」の
悲劇も、この戦いで起こったものだ。
クーデター軍と徳川軍との最後の戦いになったのは、
北海道の五稜郭だ。徳川さんの部下で課長だった
榎本武揚が率いる軍は、ここで降伏した。
余談だが、この五稜郭の戦いにおいて、新撰組の副長
であった土方歳三は、最後まで鬼神の如く戦って死んだ。
京都の新撰組を支えた男は、最後の最後まで自分の
信念を貫き、幕末の時代を走り抜けた。
自分の敬愛する司馬遼太郎の代表作「燃えよ剣」は
この土方歳三の生涯を書いたものだ。
"幕末"とは、ここまでの歴史を指す。
その後、「明治政府」という新しい組織が日本を運営
していくことになり、大名による取締役会は解体される。
明治天皇を総帥にし、岩倉具視や三条実美などの公家
出身者が周囲を固め、いわゆる政治上の代表権を持つ
"宰相"が置かれ、初代宰相を毛利執行役員の部下だった
桂小五郎(木戸孝允)が務め、二代目を島津執行役員の
部下だった西郷隆盛、三代目宰相を同じく島津家出身の
大久保利通が務めた。
だが、木戸は病床に倒れ、西郷は西南戦争で憤死し、
大久保は刺客の刃に倒れ、その後、軍部の膨張により
日中戦争、日露戦争と歩を進め、大正、昭和と時代が
進み、第二次大戦の敗戦を経て、ようやく現在となる。
長い説明を書いて、いささか自己満足に浸ってしまう。
が、"幕末オタクが幕末を語る"うえで、もっとも大事な
点が抜けている。
「幕末の人物の中で、誰が一番好きか?」
ということだ。
自分は、何の迷いもなく、高杉晋作を挙げる。
上に書き連ねた史実を読み返せば分かるが、
「この人がいなければ歴史が変わっていた」
という人物が二人存在する。
高杉晋作と、坂本竜馬だ。
高杉晋作の末路については書かなかったが、
毛利家内でのクーデターに成功した彼は、その後
明治政府の樹立を待つことなく、すぐに病床に倒れ、
そのまま旅立ってしまう。
ここに、高杉晋作と坂本竜馬の決定的な違いが
見えてくる。
高杉晋作は、自己の目的を遂げて死んだ。
坂本竜馬は、自己の目的を遂げぬまま死んだ。
歴史の神とは、ときに残酷で、歴史を変えるために
人を生み、役目が終わったら、その生を奪う。
だが、歴史そのものの勢いによって、神が生んだ
人の生が、期が合わずして奪われてしまうこともある。
坂本竜馬がそのまま生きていたとしたら、おそらく
海援隊を基盤にした商業局が明治政府に設置され、
諸外国との経済取引でその地盤を固め、いまから
100年も前にして、日本は世界的な経済大国に
のし上がっていたかもしれない。事実、竜馬の死後、
彼の右腕だった陸奥宗光は、明治政府の外務大臣
として諸外国との通商窓口にあたった。が、竜馬
ほどの傑人ではなかったため、長州派の推す軍事
勢力に政権の中枢を握られてしまった。
「竜馬が生きていたら」という仮説は、後の歴史家に
とって推説の種にこそなっているが、現在の歴史に
何も寄与することができない。
「高杉晋作が生きていたら」という仮説が立つことは
ない。彼は身命を投げ打って歴史を動かした。
そのまま明治政府樹立まで生き残ったとしても、
おそらく彼は好きな三味線と唄を楽しみながら、
料亭で酒でも飲んで暮らしたことだろう。
彼の生き様と、姿勢と、歴史における宿命と、
それをやり遂げた人間としての気概が良い。
世の中には、幕末といえば竜馬、という人が多い。
雑談だが、ソフトバンク社長の孫正義氏は、この
坂本竜馬を敬愛し、社のロゴマークに、竜馬が立ち上げた
海援隊のマークを引用している。ソフトバンクホークスの
選手達のユニフォームにも、新携帯ソフトバンクの店舗
看板にも描かれている。フランス国旗を横にして、青と赤の
部分を黄にした、あれだ。ソフトバンクによるとあの黄色は
レボリューションイエロー(革命の黄色)と呼ぶそうだが、
なるほど、竜馬の生き方や考え方に共鳴した孫正義氏の
気概のほどが受け取れる。
ちなみに、坂本竜馬が海援隊を作ったように、
高杉晋作は「奇兵隊」を作った。
"刀や槍を持つのは武士"と決められていた時代に、
「意志さえあれば、身分を気にせず、集って戦え」と
人を集め、農民出身者たちを屈強の兵に育て上げて
強い軍隊を作った。のちに初代内閣総理大臣となる
伊藤博文も、この奇兵隊の中心メンバーの一人だ。
だが残念ながら、海援隊と違い、ロゴマークがない。
もし、奇兵隊にロゴマークがあったなら、間違いなく
うちの会社のロゴマークに用いたことだろう。
そして、「意志さえあれば、学歴に問わず集まれ」
をスローガンに、精力的に人材収集に努めたに
違いない。
だが、自分には、尊敬する高杉晋作から引用する
ロゴマークもなければ、孫なんとかさんのように、
歴史人物を生き映して会社を興し上げていけるほどの
気概には恵まれていないようだ。
のんのんと会社をやっていきながら、
休みの時間に幕末本を読みふける、
そんな気楽な"幕末オタク"でいたい。
END
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